個性派メンバー揃い!スタッフ紹介

HOME個性派メンバー揃い!スタッフ紹介 → 福田明伸 : ミュージアム運営から工務店の経営へ。

福田明伸 : ミュージアム運営から工務店の経営へ。

福田明伸

みなさん、はじめまして。
福田工務店代表取締役の福田明伸です。

みなさん、天保山にあった私設ミュージアム「天保山現代館」って覚えていらっしゃいますか? 実は1999年まで、そこの館長を務めていました。

今は先代から事業を継承し、2代目社長として大好きな建物を建てている日々ですが、順風満帆な経緯を経て社長になったわけではありません。

建築留学の夢の断念、ミュージアム運営事業への挑戦、阪神大震災での転機、先代の不良債権処理のための奔走、イタリア人の妻との出会い・・。


福田明伸(ふくだ あきのぶ)

代表取締役: クリエイティブ・ディレクター、お客様からのご相談窓口全般

●趣味  ドライブしながら建築散策し、カメラマン気取りで撮影すること。
●特技  イタリア語がしゃべれること・・・CIAO(チャオ)!!
●好きなもの  デジタルグッズ、音楽全般(U2インコグニートエイミー・マン角松敏生etc)
●苦手なもの  妻からの国際電話、3階建ての足場の上

(→ 個人ブログはこちらをクリック!「福田社長&JJのひとりごとブログ」) 福田工務店の代表・福田と愛犬JJです!よろしくお願いします!

29歳で福田工務店の社長に就任するまでの間、たくさんの人に支えられ、多くの貴重な出会いと 別れがありました。そして、家づくりに携わる今でも、その時の経験が糧になっている様に思います。

そんな私の出生からの半生を、恥ずかしながら振り返ってみました。

私の略歴

1969年 11月 大阪にて生誕
1992年 3月 近畿大学理工学部 建築学科卒業(何とか・・・笑)
1992年 4月 福田土地建物株式会社入社 文化事業部
1992年 8月 同上文化事業部が運営するトリックアート美術館(SAMミュージアム)の館長就任
--------------------------------------------------------
1995年 1月 阪神大震災
--------------------------------------------------------
1995年 7月 株式会社福田工務店入社 専務取締役
1996年 5月 震災の影響を受けたSAMミュージアムを天保山に移転
          アミューズメント・ミュージアム「天保山現代館」としてリニューアルOPEN
1996年 6月 結婚
1998年 2月 株式会社福田工務店 代表取締役に就任
1999年 5月 天保山現代館閉館と同時に、工務店の経営に専念。現在に至る。

幼稚園時代

特にナシ。というより、あまり記憶にありません・・・。
信仰とは無縁の家系でしたが、何故か仏教系の幼稚園に入園。週に1回ある座禅の時間が大嫌いだったので、その時間になるといつもお腹が痛くなっていた記憶があります。

小学校時代

家が学校の正門から徒歩10秒の近さだったので、遊び場はいつも学校でした。放課後や休みの日には、校庭やプールに浸入していたものです。また、後々深く縁のある天保山には友達と自転車でよく出かけてました。海遊館などで賑わう現在からは想像できない程、この頃の天保山は外人の船員さん集う数件のBARしかなく、子供心にもノスタルジックだったのを覚えています。

中学校時代

小学校で我がままだった自分とは違って、周囲に「気配り」ができる友人に出会い、カルチャーショックを受けました。そのことが、今の自分の人格に少なからず影響しています。。その友人の誘いもあり、当時中学校では珍しいラグビー部に入部しました。大阪市内での大会でもビリから数えた方が早い弱小チームでしたが、俊足を生かし右ウイングで走り回っていました。

高校時代

高校は当時男子校の近畿大学付属高等学校でした。現在は男女共学になったようです。

高校2年から、何人かの気の合う仲間でバンドをすることになり、当初アルトサックス担当から、何とボーカルに抜擢!いまではあまり想像できないと、当社のスタッフからも言われます。

高校は大学のキャンパス中にあったので、白衣を着た大学生の姿をよく見かけ、その頃から理工学部に進むことを意識していたような気がします。

大学時代

そして、なんの迷いもなく近畿大学 理工学部 建築学科に入学。
ただ、イングヴェイ・マルムスティーン(知らないですよね・・・)似のバンドのギターリストが入試に落っこちてしまい、そのまま離れ離れに。音楽どっぷりで、勉強してなかったからですね・・・。

建築学科もまた、1学年200人の学生のほとんどが男子という、むさ苦しさでした。 3回生になると、意匠(デザイン)もしくは構造(骨組み)の分野を選択する必要があります。建築を学ぶということは、理論や計算式を学ぶのではなく、感性を学ぶのだ!と勝手に決めていたので、意匠を選択しました。
そんな発想なので、建築雑誌を片手に著名建築家の建物を見学しに出かける・・・というのが唯一の勉強でした。一方、絵を描くのは好きでしたが、図面を書くのは嫌いでした(笑)。
卒業設計もみんなの作品を論評するばかりで手を動かさなかったので(嫌な学生ですネ)、もう少しで卒業浪人というところでした・・・。

建築留学の夢

俗に言うバブル崩壊直後でしたが、周囲の就職状況は大手ゼネコンや大手設計事務所の入社試験にどんどんパスしていきました。

私はといえば、父が工務店を営んでいたこともあり、企業への就職は一切考えていませんでした。
卒業間近になって、満足に勉強していなかった「建築」に開眼し、再度学生を続けることを考えていました。
正確に言うと、大学卒業後、南カリフォルニア建築大学(SCI-Arc)の入学試験を本気で受けようと思っていたのです。

しかしながら、私が卒業出来るか否か!?とい冷や汗をかいていた時期、親がトリックアート(騙し絵)の美術館を準備していることを知らされました。ただ、得体の知れないその内容と、私の卒業における危機的状態が、それに直接関与する機会を遠ざけていきました。数ヶ月後には私が館長になることなど思いも寄らず・・・。

トリックアート・ミュージアムの誕生

私が大学を卒業したその年(92年)の5月1日、視覚トリックをテーマにしたSAMミュージアムはOPENしました。
当時、目新しさから多くのマスメディアに紹介され、溢れんばかりの入場者の対応にアルバイトとして駆り出されたこともありました。そんな中、初代の女性館長がオープンまでの過労と、その後のあまりの忙しさの為、即退社。私が留学の準備を進める中、美術館の運営や企画を行う人物が不在のまま夏を迎えようとしていたある日、父から私への懇願がありました。

建築進学を諦めて、ミュージアム運営の指揮を取れと・・・。

イタリア人の妻との出会い

SAMミュージアムがテーマとする「騙し絵」ですが、優れた作品や技法は主に西洋に於けるルネッサンス時代のイタリアで発展し、日本では江戸時代製作のものが今でも尊重されています。
そのルネッサンス時代の背景を研究するようになったことで、「イタリア」に何の縁もなかった私に思いも寄らない紹介がありました。

それは丁度私が館長を引き受けた直後で、館の運営に悩んでいた頃でした。
学生時代に日本に留学し、その後卒業して再来日したイタリア人に会ってみないかということになりました。就職面接を兼ねて・・・。それが妻との初めての出会いです。

彼女はローマ大学で日本文学を専攻し、当時既に日本語が堪能で、外国人に抱く威圧感を私は感じませんでした。聡明で明るい人物でしたので、その場で入社が決定しました。

実務においては、翻訳はもちろん、対外的なミュージアムの顔となり、マスコミ対応や企画営業に従事してもらいました。特に団体客を送ってくれるバス運転手さんにはたいそう受けが良かったらしいです(笑)

阪神大震災

ミュージアムの入場者数は初年度・2年目とも、年間10万人を超え、好調なまま3年目を迎えようとしていました。
しかしながら住宅・不動産業界は住専問題を発端に不良債権が社会問題化し、同時に金融・保険の再編を絡み、「失われた10年」といわれる時代に入っていきました。

そして95年1月17日、忘れることの出来ない阪神大震災を境に状況は一変しました。

比較的震度の弱かった大阪でも、ミュージアムのある湾岸地域では、地面が液状化。一見被害を受けていないように見えた不動産部が所有する立体駐車場も、実は契約車が何台も折り重なって転落していました。
駐車場契約者と駐車場メーカーを交えての補償交渉が、その後1年以上続きました。

一方、美術館は直接の震災の被害は免れたものの、社会全体が娯楽どころではない状態に・・・。それまで好調だったミュージアムの入場者は半減し、その後1年維持するのがやっとのことでした。

ミュージアムの移転、天保山現代館へ

SAMミュージアムの所在地は港区の大通りの交差点角、同じ交差点には当時の住友銀行と三和銀行があり、港区内では好立地です。
父親の会社は、震災の影響でこれ以上の入場者が見込めない以上、この立地条件を生かし高収益化に物件に転換する方向性を模索していました。
一方で、震災時に被災したあの立体駐車場を併設する大型ショールーム型の物件が長い間借り手の付かない状態でした。

SAMミュージアムを天保山に移転することで空き物件を健全化し、ミュージアムが移転した後の土地・建物をテナント貸しで収益を上げる、これが会社としての方策でした。
震災の翌年5月、SAMミュージアムはアミューズメント・ミュージアム「天保山現代館」として生まれ変わり、SAMミュージアムが使っていた建物は、大型パチンコ店がテナントとなりリニューアルしました。

事業承継

ミュージアムを移転するという会社として一大転換期ではありましたが、父は不良債権処理、被災の補償問題に忙殺され、他のスタッフも疲弊していました。

父親の会社が発注する建売り住宅の建築請負業だった福田工務店も、不動産事業が芳しくない中で限界が見えていました。
私のほうは、ミュージアムを運営・維持する中で、徐々に福田工務店の活性化にも首を突っ込むようになっていきました。

1995年 7月 株式会社福田工務店入社 専務取締役
1996年 5月 震災の影響を受けたSAMミュージアムを天保山に移転し、アミューズメント・ミュージアム「天保山現代館」としてリニューアルOPEN
1996年 6月 結婚
1998年 2月 株式会社福田工務店 代表取締役に就任
1999年 5月 天保山現代館閉館と同時に、工務店の経営に専念。現在に至る。

上記の経緯が示すように、父の会社のミュージアム事業の着地点を探しつつ、何れは自分の性に合っている物づくりの「工務店」を継承すべく、29歳での社長交代。
不良債権処理の為、工務店活性化の為、しいては父や自分自身の為・・・。
当時はあまりに早すぎると言われましたが、いろんな事由が複雑に絡み合い、あのタイミングしかなかったかな・・・と今は思っています。

そんな2代目の私と共に、新たな「福田工務店」が始動しました。